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今日は、先日のクラスでお話したことを
ここでも書いてみようかなと思います。
わたしは陰陽説を勉強し始めて、
非常に感動したことは、大きくふたつ。
変化する、という大前提がある
ということと
相対的
ということです。
なぜわたしがそこに感動したか、というのは
きっと自分の苦手なところだったからなのだと思います。
ちなみにここでは陰陽説の視点から書いていますが、
実はヨガのプラクティスを通して先生から教わったことでもあります。
全ての真理はきっとつながっているのだろうと思います。
わたしは、革命、という言葉になぜか昔からとても惹かれていました。
誤解のないように加えると、
血が流れることを好むというわけではもちろんありません。
歴史という流れの中で、
大きな変化を起こしてきた勇気ある人たちの行動にとても感銘を受けています。
もちろんその背景は色々あって、
どこの立場から見るかによってその革命も様々な捉えられ方をするでしょう。
正しいか、そうではなかったか、
ということではなくて、
そういう変化を起こした、ということに憧れのような感覚を持っていました。
それなのに、実際のわたしはというと
変化することを切望しているのに
変化することをとても拒んでいました。
今思えば、
だからこそ、強く望んでいたのだと思います。
変化しないものを安定として捉えていました。
変わらないものは、わたしの心を満たし安心させます。
変わらない関係、変わらない信頼、変わらない愛情。
どうかずっとそのままで。
でも本当の安定は、
ゆらぎや流れや変化の中でバランスをとりながら
倒れないどっしりとした土台があることでした。
わたしの中で「変わらない」というのは
「失わない」ということとイコールでした。
0か100かだったのです。
得るか失うか。
本当は変化しないものはこの世にはないし、
本当はわたしが安心できるそれらは「得る」ものでもないし「失う」ものでもないのに。
変化する、ことを阻止するのではなくて、
変化することが大前提で、
それをどう受け止めて、どう見て行くか、ということなのだと
感じました。
それがまずひとつの感動でした。
もうひとつは相対的、ということ。
変化を拒んでいた、ということとたぶん繋がるのだと思いますが、
わたしは「絶対的なもの」という意識がとても強い方だと思います。
これも前より少し薄れましたが、
まだまだ練習中です。
こうあるべき、とかこうするべき、とか
これは間違っている、とか、これは正しい、とか。
でも、これは
「芯が強い」とか「正義感がある」というのとは違いますね。
何が違うか。
視点です。
相手にとって、なのか、自分にとって、なのか。
頑固さや頑さの根底には、
「自分が正しい」という前提があるのだと感じました。
会社員をしていた頃、
壁にぶつかったわたしに、父から言われたことがあります。
「意見を言うときは、正しいか間違っているか、ではなくて、
自分の感情で言う」
正しい、正しくない、というのは、
立場や状況や環境によって、変わる、ということ。
でも、
「こういうやり方がわたしは良いと思います」とか
「これが好きだと感じます」
ということは、とてもパーソナルなその人の意見です。
意見はその人のものですが、
「正しい」かどうかは、相手をジャッジすることになる、ということ。
当時まだ今よりいくつも若かったわたしは、
なるほどな、と思いつつも、「わかるけどーうーん」と言っていましたが、
今は本当にまったくその通りだなと思います。
自分の中にある正しさと違うものを間違っているものと位置づけてしまうこと。
それは正義に似て非なるもの。
振りかざせば鋭い凶器になる、ということを
この相対的、ということから学びました。
陰陽は、どこから見るか、何と比べるかによって変わります。
絶対的な陰もなければ、絶対的な陽もない、というのが陰陽論です。
その人それぞれの人生や背景がある、ということ。
相対的に見れるということは、
相手へのちゃんとしたリスペクトなのだと感じました。
愛情をちゃんと人のためにつかえる人になりたいなと思います。
あとはこうして頭で考えがちになるので、、、
どうしてもね、、、考えることが昔から好きな性質ではあるので、、。
もっと実践です!!
(あとブログも、、実は結構書いているのですが、全部下書きのまま保存されています。
うわーっと勢いで書くのですが、見直すとなんとなく公開するまでに時間がかかってしまいます。。)