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感情の根源を探ろう
感情の根源を探ろう。
様々なきっかけで、
自分の中にあった、「べき」が、
「自分が正しい」という根底から出て来ていることがよくわかったし、
その根源には、「正しいと評価してもらいたい自分」がいることがわかった。
自分のことを理解してもらいたい、という欲求。
誰かや何かのせいにするのも同じこと。
自分を守るために、自分を納得させる理由を作るのだ。
それがわかってから、
言葉にすることを、非常に難しく感じるようになった。
というとマイナスなイメージに伝わるけど、そうではなくて、
人それぞれの人生があると考えたら、
「べき」を相手に押し付けたり、
「わたしのことわかって!」
と一方的に言うことが、
どれだけ無意味なことかと感じるようになった。
ただ純粋に、目の前にいる人と向き合うことや、
好きな人たちを想うことや、
応援してくれている人に感謝することや、
大事な人を守ること、
そういうことがただただできないかと思う。
もちろん発展や未来があることだったら、
きちんと覚悟ある言葉で自分の思いや、
やめて欲しいとか、理解して欲しい、
ということを伝えることは大切と思う。
でもただ自分の思いを振りかざして、
相手にそれを思い知らせたところで、
ただ相手を傷つけるだけだったり、
自分の満足のためなら意味がないような気がしている。
相手はその自分を守り満たす根源から出てきた態度や言葉で、
信頼を増すのだろうか。
悪かったなと思うのだろうか。
わたしのことをもっと好きになるだろうか。
それとも、
自分勝手な人だと思うだろうか。
信頼をなくすだろうか。
わたしのことを嫌いになるだろうか。
自分や物事にピュアであることや、
相手を本当の意味でリスペクトするという意味は
そこにある気がする。
と言いながらも、
毎回そんなことを考えているわけではない。
そんなことをまったく考えず話させてくれる人たちがいてくれる
その信頼感と、支えがあるから、
そういうことも考えられるようになったということ。
人の感情はとってもややこしくて、
相手との関係とか、その対象物への自分の思いや、
自分の中の感情とか、欲求とか、プライドとか、
ややこしくそれらが層になってあるので、
自分の根底の思いを探ることは容易ではない。
でもそこを理解しなくては、
なかなか次に進めないような気がしている。

それなりにしんどいことだけど、
自分で自分をちゃんと理解する、ということは
一番健全なことだと思う。
突破口となるのは、身体だと思う。

感情はその多くの層でいくらでも見えなくなるけど、
身体は嘘をつけない。

自分の歩いてきた道や想いが全部詰まっているから。
ヨガのプラクティスは、
心のプラクティスだ。

 

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