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練習をたくさんしたからといって、結果が出るとも限らない。
どれだけ頑張ったか、どれだけ長くやっているか、という精神論でもない気がする。
「練習」をすれば何かを得られると思いがちだけど、そうでもないかもしれない。
仕事しながらおにぎりを食べていたら、そのおにぎりはどんな味がしたかあんまり覚えていないということもある。
どこかへでかけて、空気の良いところで、気持ちをこめて握ったおにぎりを味わって食べたならば、それはなにか特別なことになるかもしれない。
おにぎりを食べるという行為は変わらないのに、感じたことは違う。
でも食べないとわからない。
そう、練習をたくさんしたからといって、結果が出るとも限らない…
だけど、練習という経験からしかその発見は得られない。
「練習すれば」じゃない、「練習という経験にどう向き合ったか」で変わる。
りんごを食べたことがない人に、いくらりんごの説明をしても経験としてはわからない。
りんごを食べてみて、初めてそれが経験としてその人のなかに生きるし、理解できる。
それがヨガだと、以前ビクター先生がそんなようなことを話してくれた。
先生の言っていることが、最初からわかるわけはない。経験が違うのだから。
「こういうことかな」と思っても、私は「それ」をまだ知らないからわからない。
でも先生方が口を揃えて言うことは、「練習の中でおのずと答えはでる」
体の方がよっぽどかしこいから、体の方が「これだ!」とわかる。
そして初めて「それ」の入り口というか、輪郭がわかってくる。
それが練習なのだと思っている。
間違った練習をしているときは、実は私は根っこのところでは「わかっている」。
正しい方向性で練習したときは、やっぱり「わかる」。
体は思った以上に神秘的だ。
科学でわかることもあるし、きっとそれ以上のこともある。
私は、練習生である仲間の先生たちと、練習について感想を話すのが好きだ。
みんな自分の体での経験だから、人の感想を聞いて、すっごい発見をもらったりする。
似たタイプの体の人はやっぱり同じ感想になるのも面白いし、でもやっぱり違うから、ブレイクスルーのヒントをもらえたりもする。
練習でどうなりたいかはわからない、でも、どうなるのかが楽しみなのだ。