知性と感覚

知性と感覚

 

最近よくお話している、知性と感覚の話です。

 

練習のときにはどちらも大事です。

でもどちらにも偏りを作らない。
それも調和するところが大事だなと思います。

 

「感じること」

すごく大事なことですが、感覚に溺れてしまうと違ってしまうと感じます。
それに、自分が感じることを自分がすべて知る事ができると思うのもまた違うことだと思いますし、自分が感じていることがすべてだと思うこともまた違うような気が。

それは本当に自分が「感じていること」でしょうか。「感じたいこと」じゃなくて?「感じようとしていること」じゃなくて?

感覚をよくみることは大事ですが、これも訓練が必要だと思います。
感覚に溺れず、思い込まず。

「考えること」

すごく大事ですが、頭を使いすぎるとバランスが崩れると思っています。
こうなるとこうなって、だから足をこうして、ああして…
と分析しすぎると、自分の体を切り刻むようで悲しいです。そうするとパーツや部分で、そして物体として扱う感じになり、そこに自分の感覚というのが抜け落ちてしまいます。

これらも陰陽で成り立っていると思います。
練習は、どちらに傾きすぎてもだめで、でもどちらも大事だと思います。

 

バガヴァッド・ギーターの中には魂と肉体の話で馬車の例えが出てきますよね。プラトンのバイドロスの中にもイデアの話で魂が馬車に乗っているという例えがでてきます。

どちらの影響もあると思いますが、私もなんとなくイメージの中にこの馬車があり、二頭の馬がひいていて、一頭は知性、一頭は感覚。それを「自分」がどう扱うか、みたいに捉えているところがあります。イメージですけどね!

 

そのときに支えになるのが、「呼吸」だと思います。
もちろん呼吸も陰陽でできているし、それも知性と感覚で扱う部分もありますが、呼吸はちょっと特殊な気がしますね。
無意識にしているものだし、内臓という物理的なものを使い、目に見えない「気」の動きであり、全てをつないでいる、私たちが少し触れることができる叡智だと思います。

 

ある他流派の先生と話していて「そうそう!」と盛り上がったのですが、
これは「内と外」にも繋がる話だと思うのです。

内側にこもりすぎてもダメで、外に意識が飛びすぎてもダメで…
感覚に溺れて周りが見えなくなることも、周りを気にしすぎて内側が見えなくなることも良い形ではありません。

 

中庸

調和し中庸でありたいと思いますが、こうして考えると非常に難しいことだなぁと感じます。
中庸だと一体どういう景色が見えるかなーと日々思います^^

 
 


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