紐解かれる自分のこと

 

思えば小学生の頃だ。

私はもともと非常に目が悪く(社会人になってレーシックしているけれど)それも原因のひとつだったのかもしれないし、単純に身体能力の低さなのかもしれない。

とにかく、私はアクロバティックなことは一切やらない子どもだった。

 

小さい子って、側転したり、アスレチックによじ上ったり割と身軽にやると思うけれど、私はやらなかった。
とても恐かったからだ。

でんぐり返しすら、小学校に上がって眼鏡をかけるようになってからはほとんどやっていないのではないだろうか。

アスレチックの歩いて渡る丸太だって、渡るまでにすごく時間がかかったし、諦めることも結構あった。
周りの子はすいすい渡っていくのに。
恐かった。とにかく。

 

忘れもしない、体育の授業での跳び箱。
私は跳び箱が大嫌いだった。跳べる気もしないし、はっきり言うと跳ぶ気もなかった。

45分の授業で、私は一回もチャレンジせずに終えた。
先生は何も言わなかったけど、きっとわかっていただろうなぁ。
私がやる前から諦めていたこと。
そして一度もチャレンジすらしなかったこと。

 

今でもその感覚は覚えている。
チャレンジすらしなかった、というそのなんとも言えない思いは、消化されることなく私の体の奥にずっと残っていた。

 

それを思い出したのは、ヨガの練習を始めてからだった。
正確に言うと、アシュタンガヨガの練習を始めてからだった。(真面目なアシュタンギではないけれど敬意をこめて。)

そんな私にとって一番最初の難関は、ドロップバックだった。
(立ったところから、後ろにおりてブリッジにはいること)

 

今までそういうことを一切してこなかった私にとって、後ろにおりるということは恐いことだった。
それまでのバックベンドの練習も私にとっては本当にきつかった。胸も開かないし、呼吸も苦しい。脚の支える力も弱いし、腕もきつい。
先生曰く、私は「前屈より後屈の方が得意」とのことだったが、当時は苦しくて仕方がなかった。

 

苦しかったけれど、そのずっと消化せずに残していたものを、また作りたくなかった。
または、その消化できなかったものを、消化するチャンスだと思ったかもしれない。もう逃げたくなかった。

とはいってもこの辺りは後付けで、当時はただなんか考えていたような、いなかったようなだったかもしれないけれど、確実にその辺りから自信が持てるようになったのは実感としてある。

 

自信、というのは「私はできる!」というものではなくて、
「やったことは蓄積される」ということがわかった、ということ。
取り組んでみたら「取り組んだ」という事実は残るということ。
結果はどうあれ取り組んでいなかった時の私から変化するのだ、という当たり前のことを実感できた。

おそらく「練習」の重要性を本当の意味で理解できたのは、ここだったのではないかと思っている。

 

でも一人でそれができたわけではない。
先生の存在が大きかった。
私は先生を心の底から信じていたし、先生がそのようにずっと指導してきてくださっていた。
言葉には出されなかったけれど私の性格の特徴などもわかった上で、挑戦させつつ、ひとつひとつのステップをきちんと踏むよう指導してくださった。
だからそういう意味では「後ろにおりることは恐いことだった」けれど、実際「恐い思いをしたわけではない」。

恐い気持ちを「自分自身で」越えていけるように、ひとつひとつのステップ、プロセスがあった。

 

昔ピアノを長くやっていたけれど、練習が嫌いでまったく上手にならなかった。(もったいないね…)
ピアノが上手な友達に「練習してえらいね」と言ったら(恥ずかしいけど 笑)

「そう?だって弾けないのが弾けるようになるの楽しいじゃん」
と彼は言った。
なんだか衝撃的だった。

 

ずっとずっと苦手なことは避けてきたから。
好きなことはそこそこ得意なものだった。だから頑張れた。

もちろん彼にとってはピアノは好きなものだったろうし、得意なものだったかもしれない。

でも、なんかその言葉は私の中に残った。
できないことをできるようになるために練習する、というのはあまり頭になかった。

スポーツも部活でその時に練習はしたが、でもそれも「苦手なことをやる」というほどのことではなかった。
克服する、というほどの熱量を「練習」に捧げた経験がなかった。

 

「練習」するってなんだろう。

今私を知っている人はストイックな人と思っている人が多いけれど、
別にそうでもない。

そうでもないどころか、全然そんなことない。

 

好きなこと以外の「練習」なんてほとんどしてこなかったし、
苦手なことはずっと避けてきた。
やらない言い訳のほうがずっとずっと得意だ。

 

でも、なぜかヨガに出会ってしまって、今こうしている。

ヨガの練習の中で見えてきたのはそういう自分だった。

なぜ苦手なことをずっと避けてきたかって、
失敗したときの恐怖感だった。

身体的な恐怖もあるだろうけれど、
惨めさへの恐怖感だったとわかった。
だから最初からやらないことを選んだ方がずっといい。

そういう自分が受け入れられない、そして「惨め」だと感じる、そんな自分だったとわかった。

 

それがわかってからの陰ヨガの練習がすごく変わった。

それなりに練習していれば最初は変わるけれど、
ある時からまったく変化が起きなくなっていた。

練習時間を増やしても、変わらなかった。
1つのポーズを集中してやったり、色々なポーズをランダムにやったり、しっかりシークエンスを組んだり、
とにかく色々試してみたが、まったく変わらなくなって途方に暮れた。

 

でもそれがわかった時に、陰ヨガの練習の中でもひっかかっていたのが根っこに潜む恐怖心だとわかった。

陰ヨガのポーズはアシュタンガヨガで私が感じたような恐怖を克服するようなものは私にとってはなかったが、自分で感じていないだけで、本当は奥にある扉はまだまだ開いていなかった。
恐怖心で鍵をかけていたから。
だからその外側は変化したけれど、そこまでいったらまったく変化しなくなったのだった。

 

今までの練習が浅かったことを実感した。
ただポーズを追いかけていただけだったのかもしれない。

自分がそこにどう向き合うかだった。

ヨガは身体的な練習だけではなくて、
いや、というよりも、ひとつであるから、それも、それこそが精神的な練習になるのだと理解した瞬間だった。

ここから、
他の誰かの評価や教えているとかいないとか関係なく、
「練習しなきゃ」ではなく、
ただ「自分のための練習をする」ということに徹することができるようになったと思う。

 

今はできないことは苦しいことでも惨めなことでもなくて、とても楽しいことに変わった。
自分の可能性が広がると思うから。

少しでも広げたい、できないことが少しでも形になったら嬉しい。
でもそれが全てではない。
できなくても挑戦できたことが嬉しい。
それだけでも、何かが変わったと思えるから。

むしろ、「できるようになる」ということはないとわかった。
もっともっと奥行きはあって、終わりはないんだとわかった。

今も頭を打つことはたくさんあるけれど、
素直に成長したい。少しでも。

そして一生懸命頑張りたい。
「最初からやらないことを選んだほうがずっといい」なんてもう思わない。

挑戦できる自由があることが、嬉しい。

 
 


コメント

  • 「恐れ」について、とても勉強になりました。ありがとうございます。
    「恐怖心」とは生きているすべてのものにあると私は考えます。
    それは、危険を察知し回避する本能であると・・・今回、学んだことは
    それを前向きに受け入れて克服しようと努める心ある方は、とても優しくなれるのだなあと感じました。だからヨガをされている方たちは、優しいと・・・苦しみや辛さがわかるから・・・みなさんのような方が、
    世界に増えていくことを心から願います。

    2016年11月8日 9:44 PM | tetsuya

    • tetsuya様
      コメントありがとうございます、また、読んでくださりありがとうございます!
      私も恐怖心は生きる本能の感情だと思います。
      必要なことでありますが、私たち人間においては少し複雑ですよね。一体何に恐れを抱いているか紐解くと知らなかった、または見ようとしていなかった自分の姿を発見できるかもしれないということを、ヨガを通じて知る事ができました。
      私は決して優しく優れた人間ではありませんが、そのような人たちに少しでも近づけたらと思っています^^

      2016年11月8日 10:03 PM | pittoresque_admin

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